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2日目から4日目

この期間のことは、断片的な記憶しかない。私は、現実を知ることも、受け入れることも満足にできないまま、奔走していた。

奈津子は2日目、3日目と日を追うごとに階段を下っていくように、段階的に麻痺を悪化させていた。

両日とも未明、午前3時くらいにトイレに行くようなタイミングで、頭に激しい痛みを伴い麻痺が広がった。

1日目に元気だった奈津子は2日目の朝に具合が悪くなったが、2日目の夜まで歩行を許可されていた。3日目の未明、麻痺が悪化してから、ベッドから起き上がることを禁止された。

奈津子と電話で話をするが、口も麻痺があり発話がしづらく、呂律が回らなくなっていた。また、麻痺が進む右手ではなく、左手だけ使えるため、左手で携帯を握り話すことがつらい状況だった。

いろいろ話が聞きたいが、奈津子がそんな状態なので長く話をさせるわけにもいかない。2日目、3日目の朝少し話をするが、奈津子は辛うじて必要なもの、欲しいものを伝えた後、「あまり良くないみたい」と、それだけ話をして電話を切らざるを得なかった。

私は2日目以降、差し入れが許可されている午後1時から7時の時間に合わせ、午後2時頃に毎日差し入れをしていた。そこで医師や看護師から、半日ほど前にあった症状の悪化について知らされるのだ。たまらなかった。

奈津子は寝ている間以外、ずっと意識があった筈だ。多分、意識のある状態で麻痺の進行を感じているのである。不安な時間を心細く過ごしていたに違いない。それを知ったところで私は奈津子の手を握れるわけでも、傍で声をかけることも出来ない。電話で少し話す程度だ。

必要なものをノートに書きだし、スーパーや百均、ドラッグストア、ホームセンターなどを回り、買い集めた。多分、奈津子は病院食があまり食べられないと思い、奈津子が食べられるおにぎりなどを作った。それを携え病院に行くたびに状況が悪くなっているのだ。「なんだこの状況は、何が起きているんだ」、私は心の中で叫んでいた。

私が傍に行けない状態で奈津子を元気づけるにはどうしたらいいのか、私は考えた。私は奈津子が大事にしているぬいぐるみの「ポポちゃん」を連れていくことにした。ポポを紙袋に入れ、小型のオゾン発生装置使い除菌した。「ごめんよ、ポポちゃん」と言って、しっぽに紙の名札を巻き付けた。それが3日目4月28日だった。昼過ぎに差し入れし、私が待合に座っていると、奈津子はポポとストレッチャーに乗せられ私の目の前をとおり過ぎていった。丁度検査に出かけて行くタイミングだったのだ。手を振り、声をかけると奈津子は嬉しそうにポポを抱きしめながら手を振ってくれた。病状説明があった。はっきりとした脳梗塞があり、これにより麻痺がある状況。原因は分からない。血栓によるものか、解離なのかも分からない。そんな説明だったと記憶している。


4日目、金曜日の午前中、主治医から携帯電話に着信があった。その声は上ずり、ただならぬ状況なのかと思った。「もしこれが解離なら、大変なことになる」。カテーテルを用いて血管撮影し、より精緻な画像診断の必要がある、その際は同意書へのサインが必要となるとの説明だった。午後また電話があり、「脳外科医と相談して血管撮影しないことになった。検査してもしなくても治療方針に変わりはない」と説明があった。その声は揺れていた。明らかに声に動揺が窺えた。「この人、脳外科医に何か言われてるな」私はそう思った。思ったが主治医にそう言えるわけではない。私の中で、歯切れの悪いこの説明に、モヤモヤとした感情が芽生えていった。

血管撮影
ストレッチャー
脳動脈解離
 

診断画像

2022/04/28 DWI


2022/04/28 MRA3D 


2022/04/28 CE 


 

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5日目

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